美味しんぼの鼻血は、やっぱり風評加害だ!

美味しんぼ「鼻血問題」に答える』(雁屋哲)を読みました。

安全と安心の定義

第1章「なぜ、私はこの本を書いたのか」の最後に次のようにある。
大前提として「安全とは何か」について私が判断する基準を説明しておきたいと思います。
私の設定した安全についての基準自体が間違っているというご批判はもちろんあるでしょう。
しかし、私自身の安全についての判断基準はこのようなものだと提示しておけば、この本を読まれる方は、私の安全に対する考え方が良くわかっていただけると思います。
そこで、この本で私が「安全」「安心」について語る時の「安全原則」をまず次の章に書きます。
これは、とても良いことだと思います。
議論の大前提をまず提示する。そこがぶれていると議論にならない。
こっちが思っている「安全」と著者の「安全」が全く違うのだが、違うことを知らないまま話を進めると、何の理解もできませんからね。

■安全について
では、第2章「安全の定義」を見ていきましょう。
①いかなる事物であっても、それが人間存在(肉体、精神)を傷つけ、損なうものを危険、という。

②これまでに人類が蓄積してきた知識を元に、科学的に客観的に検証しても、その事物が危険であるとは認められないとき、その事物が安全である、という。

③今の科学のもつすべての能力を用いて客観的な検証を行っても、安全であるか危険であるかかわからないものは、今の段階では、安全か危険かわからない、という。

(A)すべての場合で安全と言えるのは②だけである。
③の、安全であるか危険であるか、今の段階でわからないものは、安全とはいえない。
安全といい切れないものは安全ではない。
安全でないものは危険である、と捉えることが合理的である。

(B)明らかに危険なものを安全ということは、重大な犯罪である。
同時に、今の時点で「安全か危険かわからないもの」を「安全」ということは、より一層重大な犯罪である。
なぜなら、
(イ)人を危険に追いやる可能性がある
(ロ)人が安全性について考える基本的な態度を奪う
からである。

(C)安全か、安全でないか、の判断は、人類が体験してきた知識の集積をもとに、科学的に十分な検討を経て客観的に行わなければならない。
※2022/11/16 引用部分に誤記があったので修正。危険・安心等修正。

最初に「安全」の定義をしてくれて有難う!
著者がゼロリスク信者でかつ、科学的なものの考え方がまるでできない人間であることが、明らかになりました。

世間一般に「安全」は「許容できないリスクがない状態」を指します。
そのため、「安全」について議論するときには、許容できるものと・できないものの境界線をどこに置くか?という話になります。

ですが、著者の意見に従うと「リスクがある=危険がある」⇒「安全でない」となり、「ゼロリスク」でなければ「安全」とは言えないとのこと。

どの様な意見を持つのも勝手ですが、これでは議論の余地がありません。
この世の中には「リスクゼロ=危険が全くない」ものは存在しないと考えた方が良いですから。
同様に、科学的に完全に解明されているものも存在しないと考えるべきで、その思考がまるで著者にはない。

例えば、自動車・飛行機などはもっての外、水・酸素も危険な物質になります。
水を摂取しすぎれば水中毒で死ぬし、酸素も活性酸素となり人体の害にもなります。
でも、水・酸素どちらも無いと生きていけません。
そのため、水・酸素について許容できるリスクをどこに置こうか?という議論をして、ここまでは安全としましょう!って話になるのです。

では、著者は危険な水・酸素を摂取せず、危険な自動車・飛行機には乗らないのか?
そんなことはない。
ああだ、こうだと講釈をたれているが、無意識的に「許容できるリスクの内にあるもの」だと判定して利用しているのですよ。

ゼロリスクを実現できるだろう唯一の方法を知っています。
それは、死ぬことです。
死ねば、自動車事故を起こすこともないし、放射線被曝もしないし、死ぬこともない。

これらを著者が認識できない限り議論はできないので、あいつの話は聞くだけ無駄だ!っていうことになる。
前提がくるっているので、この後に書かれていることも、一般世界とは相いれないことなのでしょう。

■安心について
「安全」の次は「安心」の話です。
①安全と安心とは別のものである。

②安心とは、安全が客観的なものでなければならないのに対して、主観的なものであることが多い
安全なら安心だが、安心だから安全とは限らない。

人によっては、前に述べた客観的な安全が確認できない場合でも、その場の状況に応じて、「安心しよう」あるいは「安心しろ」という主観的な願望や強制に強く動かされるとがある。
安心とは主観的なものであって、客観的で科学的な検討の結果とは必ずしも一致しないことが多い。
宗教、政治、経済的利害などの要請によっても安心は作り出され、あるいは信じ込まされ、信じることを強制され、さらには信じていたりふりをすることを強制されることがある。
「主観的なものであることが多い」と言うが「安心とは主観的なもの」ですよ。
「心」って主観そのものですよ。

「安全なら安心だが」もおかしい。
「安全なら安心することは多いが」でしょうに。
著者の安全がゼロリスクベースのものなので、その安全は存在しない。
だが一般的な安全を例にすると、建築基準が守られた高層ビルは安全だが、高所恐怖症の人は安心できない。
科学的に安全であると理性で認めていても、無理なものは無理。それが安心だったり不安というもの。

「宗教、政治、経済的利害などの要請によっても安心は作り出され」は確かにそうです。
逆も然りで、不安も「宗教、政治、経済的利害など」から作り出されます。
日本共産党が処理水放出を危険だと煽ることで、その支持者が不安に思うなどは、逆パターンの一例です。

■まとめ
安全・安心のまとめとして次のように書いている。
安全とは、誰もが検証・再現可能である確実な事実を元にした、科学的な検討を経て、客観的に判断できるものでなければならない。
そのような科学的で客観的な検証を経ずに「これは安全だ・安心だ」と、自分自身だけ、あるいは自分の属する組織、団体の中でいうなら構わないが、それ以外の人間にもその「安全・安心」を押しつけ、果てはその考えに従うように強制することは、重大な犯罪である。
こいつは何を言っているんだ?

安心は心の問題なので、他人にそれを強要するのは、同じ組織・団体に所属していたとしても憲法第十九条違反です。
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」

片や安全を強要するのは法律(建築基準法など。XXを満たさないのでこの建物はダメ、○○を満たすので建築許可を出さないことはできないなど)があれば可能であると憲法(第二十九条、第三十一条)で規定されています。
第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。
② 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
③ 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
第三十一条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

「護憲」「リベラル」などと謳う輩はマジで憲法・法律を知りませんね。

第2章の最後に次のことが書かれている。
なお、この安全論をまとめるのには、放送大学客員教授(医学・臨床心理)の久智行氏から多大の示唆を受けています。久氏は東京大学先端科学技術研究センターにおられたときに、血小板や目の正常な形成に欠かせない遺伝子を突き止めるなおど、大きな業績を上げています。
何を言いたいのでしょうね?
血小板がどうのこうのと安全・安心と何の関係があるのでしょうか?
東京大学というネームバリューに弱い権威主義的人へのアピールですか?

なお、私は、その久氏に対しては、著者と同じデタラメな安全・安心論を持っているのですか?って思うだけですが。

『第3章「鼻血問題」への反論』への反論

様々な人が、私の受けた被ばく量で鼻血など出るわけがないといって非難しました。
その意見をいちいち取り上げていると大変なので、反論の材料として今回は、2014年5月13日に、環境省が発表した、
放射性物質対策に関する不安の声について
という文書を検討することにします。
・・・
鼻時についての要点をまとめると、
①国連科学委員会がこれまでの知見に基づいて公表した結果では、住民の健康影響について「確定的影響は認められない」とされている。
②したがって、福島原発事故の放射線被曝が原因で、住民に鼻血が多発しているとは考えられない。
・・・
「考えられない」とは何事か
実に曖味で不正確な文書ではないでしょうか。
まず、①の原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)について議論すると長くなるので、ここではやめておくことにして、次の②の文章です。
この②の文章では、①で挙げた、国連科学委員会の報告書の内容を正しいものとして、それによれば「東京電力福島第一原子力発電所の事故の放射線被ばくが原因で、住民に鼻血が多発しているとは考えられません」といっています。
考えられない」といっているのです。
環境省は自分で調査をしたわけではなく、「国連科学委員会」の報告書だけをもとにして、「住民に鼻血が多発しているとは『考えられない』といっているのです。
なんという怠慢、なんという無責任。
自分で調査して「我々の調査の結果、住民に鼻血は多発していない」というなら、その調査の結果の内容について問題があったとしても、環境省はこの鼻血問題を議論する資格はあります。
しかし、環境省は自分で調査もせずに、国連科学委員会の結果だけを元に「住民に鼻血が多発しているとは考えられない」といっているのです。それでは、鼻血問題についての議論をする資格はないでしょう。
実際に自分で問題に当たらず、他人の報告書を論拠にして「考えられない」とは何事でしょうか。
事実を自分で見ず、代わりに他人の書いた論文で事を済ませてしまおう、というのです。
しかも「考えられない」といった場合、責任は「国連科学委員会」に押しつけることができます。
「鼻血が出ない」ということが間違っていることが明らかになったときには「『国連科学委員会』がこういったから、私たちは『考えられない」といったんだ。間違っていたらそれは「国連科学委員会」が間違っていたからであって、私たちの責任ではない」といい逃れすることができます。
それは、勘ぐりすぎだという人もいるでしょうが、この文書こそ、自分の責任を絶対に取らずにすまそう、という役人根性の固まりだと私は思います。
この文書は当事者意識が完璧に欠除した、無責任なものではないでしょうか。
太字は原文のまま。また文中に環境省へのリンクを張っています。

ここまでアホなことを書いているところを見ると哀れに思えますわ。
著者の周辺に著者の不見識さを指摘する人が存在しないか、その指摘を受け入れることができないのでしょうね。

科学的な物言いをする時には、デマ屋が発するような、誰でもパッとわかるようにはならないのですよ。
科学的見識がまるでない著者なので、曖昧で不正確だと思えるのでしょう。

科学的にあり得ないことも、科学的な発言をする際に「絶対に鼻血は起きない」という表現はしない。
「(科学的には)考えられない」という表現になるのですよ。

雁屋氏の主張の根幹への反論

環境省のいう500ミリグレイなどという被曝を福島の人々がするはずがありません。
環境省の最初のだまし技は、現在の福島の人々が被曝しようのない放射線量を被曝することを、鼻血が出る条件として設定して、その条件に合わないから鼻血は出ない、としてしまうことです。
・・・
環境省のいう「500ミリグレイ」などという強烈な外部被曝を浴びることで造血機能を破壊されなくても、放射性微粒子が鼻の粘膜に付着するだけで、粘膜の微細血管が傷つけられて出血することがあるのです。
・・・
今回の放射性微粒子が鼻の粘膜に付着して鼻血が出る過程について、松井英介氏と郷地秀夫氏、さらに、西尾正道氏がそれぞれの意見を出し合っています。
この議論は、まだ続くでしょう。
いや、意外に簡単に結論が出るかもしれません。
いずれにせよ、これこそが科学というものです。

・・・
郷地秀夫氏の次の言葉は決定的です。
「鼻血と放射線の関係を考えるのは難しいが、放射線が鼻血と関係がないと考える方がもっと難しい」
そして、私の結論です。
「福島の環境であれば、鼻血を出す人はいる。・・・」
ということで、郷地秀夫氏の「科学的」主張が鼻血=原発事故由来とする根幹のようです。
このことは「郷地秀夫医師の福島の鼻血放射線原因説はデタラメ」に書いたので、詳細はそちらを見て下さい。

郷地氏は、放射性微粒子が原因で1時間当たり 100mSv 被曝すると言うが、完全なだまし技です。
100mSv は 1kg あたりに換算した時の量で、実際は 0.008mSv でしかなく、極々微量の被曝で何の問題も出ないことは科学的に結論が出ています。
もうとっくに郷地氏の言うことが非科学的との結論が簡単に出てるのですよ。
ということで、雁屋氏の言うことも非科学的で、雁屋氏の言うことも風評被害の原因でしかない。

鼻血を出した原因がわかったそうです

「第6章 内部被曝と低線量被曝について」で「私が鼻血を出した原因がわかった」というサブタイトルをつけて次のように書いています。
驚くべきことに、高線量より低線量の方が細胞に与える損傷は桁違いに大きいのです
さらに驚くべきことは、この非常に毒性の強いフリー・ラジカルが細胞膜の外まで拡散して、そこで連鎖反応を起こして数分から数時間で細胞膜を溶かす。その結果、細胞内が漏れ出てその細胞は死ぬ、ということです。
なんと、これは私が鼻血を出した、そのメカニズムではありませんか。
ペトカウ効果を持ち出して上記のことを言っています。

ペトカウ効果については次を参照のこと。
ペトカウ効果:Wikipedia
保健福祉職員向け原子力災害後の放射線学習サイト

まるっきり理解していませんね。
同じ照射時間だった高線量の方が損傷は大きいのですよ。
照射総線量が同じだったら、低線量を長く浴びせた方が損傷は大きくなるっていう話です。
科学リテラシーがない著者だから理解していないのも仕方ないですが、それをもって風評加害者じゃないっていわれてもね。

ちなみに、上記Wikipedaiによると低線量と言われているのは、0.6mSv/h で、郷地氏の数字から求めた 0.0003mSv/h の1800倍もの線量です。
0.6mSv/h を年にすると 0.6×24×365=5256 mSv/y。
べらぼうに高い数字で全く低線量ではない。

ということで、何の論拠にもなりません。

逃げろと言うか?

最終章は「第7章 福島の人たちよ、逃げる勇気を」というタイトルをつけています。
もうこの時点で風評加害者ですが、一応引用します。
2011年11月から2013年5月まで、福島を回ってこの目で見た真実、この耳で聞いた真実から、下した結論です。
福島の人たちよ、福島から逃げる勇気を持ってください。
こんなことを書かれたら何も知らない人は、福島に行きたくなくなるし、福島のものを食べたくなくなるでしょう。

ちなみに、雁屋氏は「第4章 福島を歩く」で「風評被害と戦ってきたのは、私だ」などというサブタイトルをつけて次のように書いている。
測定下限値が、セシウム137がキログラム当たり1.4ベクレル。それで検出せずということなら、ゼロに近いわけだから、これは安全と考えて間違いないでしょう。
これを福島産というだけで拒否するのは間違っている。福島産のものがすべて危ないというのは間違っている。科学的に安全とはっきりしているものは、福島県産であろうと何県産だろうと安全だ。
ここに書いてあること自体は何ら間違っていない。
だが、前後の記述と全く整合性が無いのだ。

福島から逃げろとか、低線量ほど「細胞に与える損傷は桁違いに大きい」とか言っていますよね。


全般を通して、科学的にまるでダメ、言っていることも矛盾だらけです。
こんなデタラメなことを言って批判されると「私という人間を否定する攻撃だったと思います(第1章より)」ですからね。
デタラメを言ったら、その主張は批判されるのですよ(ただし、人格攻撃はダメ!)。
いつの日か、この人が自身の誤りに気づき謝罪することはあるだろうか?

美味しんぼ「鼻血問題」に答える
雁屋哲
遊幻舎
2015/1/30

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