科学者はなぜ神を信じるのか

人気ブログランキング

科学者はなぜ神を信じるのか」(三田一郎)を読みました。

著者の専門は素粒子物理学で、天文学・宇宙物理学・素粒子物理学に関する科学者の業績と神に対する考え方が示されています。


イエスはみずからが死ぬことで、罪を犯した人間が受けるべき罰を、身代わりになって受けたとされています。そのおかげで人間は、罪から解放されたのだというのです。
・・・キリスト教では、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別が、絶対に避けるべき罪とされています。麻薬中毒の患者が麻薬の害を自覚できないように、人間はあまりにも頻繁にこれらの罪を犯すので、いわば罪中毒の状態になっていて、罪を自覚することができなくなっているとキリスト教では考えるのです。
では、いったいイエスはどれだけの人の罪を肩代わりしてくれるのかといえば、過去、現在、将来にわたって、世界のすべての人間の罪を引き受けていることになっています。仮にこの世に人間が一人しか存在していなくても、その人間が犯した罪のために、死んでくれるというのです。だから人間は、罪を犯したならすぐにそれを認め、神に赦しを願えば、イエスがそれを引き受けてくれて、みずからは赦される。そして、死後には神が待つ「天国」に行くことができる。これがキリスト教の基本となる考え方なのです。
なんとまぁ、キリスト教というのはこんなものだったのですね。
知りませんでしたわ。

イザヤ書

当時、ローマ人からの迫害や、文明による堕落を避けるために、荒野で禁欲生活を送るユダヤ人の共同体がありました。クムラン共同体と呼ばれる彼ら約300人の集団は、エルサレムから約30km離れた崖にアリの巣のように穴を掘りめぐらした住居に住んでいました。
・・・
1947年のある暑い日の午後、羊飼いの子どもたちが羊の世話をしながら退屈しのぎに、目の前の崖の上のほうにある洞窟に向かって、石を投げていました。・・・壺の中からは、聖書の破片が出てきました。「20世紀考古学最大の発見」といわれた瞬間でした。しかし、残念なことに子どもたちの親はこの発見の重要さを理解せず、専門家によって調査される前に、かなりの部分が骨董品として安く人の手に渡ってしまいました。
その後、イスラエル政府が世界中に散らばった聖書の破片を買い戻し、なんと最初から終わりまで、完全な形に復元しました。これは「イザヤ書」と呼ばれ、「世界最古の聖書の写本」と認定されました)。
・・・
さて、この「イザヤ書」と、現在使われている『旧約聖書』の写本を比べることで、写本の正確さが判断できます。一字一句を比較した結果、2000年前の「イザヤ書」と、現在残っている写本とは、単語のつづりの相違がごくわずかあっただけで、意味の不一致は皆無といえるほどなかったのです。
科学・神とは関係ない話ですが、これは凄いことですね。

天動説とキリスト教

トマス=アクイナスの神学がめざしたのは、信仰と理性の一致でした。いうなれば、神の存在を「科学」によって証明しようとしたわけです。そして、彼が「理性」としてもちだしたのが、1500年も昔にアリストテレスが唱えた天動説だったのです。
宇宙の中心に神が存在する地球があり、太陽やそのほかの天体は神の手によって天球上を動かされているのだ――トマス=アクイナスのこの考えこそは、理性による神の存在証明であるとされ、当時の教会にとっては正統性を主張するための絶好の後ろ盾となりました。こうして、アリストテレスの天動説はキリスト教公認の宇宙観となったのです。
驚きの事実ですね。
聖書に直接的に地球が宇宙の中心であると書いてあると思ったのですが、神学者が言い出したことを教会が認めただけのことだったんですね。
そうであれば、解釈が間違っていたというだけで、キリストの教えが間違っていたとは言えないと思いますが。

オッカムの剃刀

「オッカムの剃刀」という言葉をご存じでしょうか。「ある事柄を説明するために、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする考え方で、「思考節約の原理」とも呼ばれています。同じ現象を説明する二つの理論があったときは、より単純な理論のほうが正しい可能性が高いという意味でもあり、そのことは私の研究生活でも、しばしば経験したものです。自然とは、明確で単純なのです。説明があまりにも複雑になったら、原点に戻って考えなおしてみると「なあんだ、こんなに簡単なことだったのか」と気づくこともあります。そしてそれが、科学が発展する瞬間でもあるのです。
これは定理でも何でもないですが、聞いてしっくりする話ですね。
後の方でアインシュタインの宇宙項の話が出てきます。
宇宙は膨張も収縮もしないという思い込みで、それに沿うように無理やり宇宙項というのを持ちだしました。
実際は宇宙項を入れないものがシンプルでかつ正しかったということが紹介されています。

科学者の敵ですね~

よく、人類で初めて望遠鏡を夜空に向けたのはガリレオであるといわれますが、そうではなかったと思います。当時、すでにヨーロッパでは望遠鏡は同時多発的に開発されていました。結果として初期の望遠鏡による天体観測の成果をガリレオが独占することになったのは、宇宙への好奇心と、観察力と、解析能力において、ほかの誰よりも少し優れていたからでしょう。昨今の日本ではよく言われることですが、「2位ではだめ」なのです。
これは民主党政権時代の蓮舫議員への当てつけですね。

科学者の神についての考え方

3名の考え方を引用します。
ケプラー
科学の最終目的は、人を神に近づかせることである

プランク
宗教と科学はものごとを違った側面から見ているので矛盾しない。科学は客観的に物質の世界を語る。現実を正確に観測してさまざまな関係を理解しりようとする。他方で宗教は主観的にこの世界を語る。何が正しいか、何をすべきかを語り、それが何であるかは語らない。つまり科学は技術の基礎で、宗教は倫理の基礎なのだ。
これはプランク自体がこう言ったのではなく、ハイゼンベルクがプランクはこう思っているだろうと語った内容です。

著者
私が考える「神業」とは、永遠に来ない「終わり」と言うことができます。人間には神をすべて理解することは永遠にできません。しかし、一歩でも神により近づこうとすることは可能です。近づけばまた新たな疑問が湧き、人間は己の無力と無知を思い知らされます。だからまた一歩、神に近づこうという意欲を駆り立てられます。「もう神は必要ない」としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。科学者とは、自然に対して最も謙虚な者であるべきであり、そのことと神を信じる姿勢とは、全く矛盾しないのです。
未知への挑戦というスタンスはケプラーと同じようですが、「無限のいたちごっこ」というのには同意しません。
仮に宇宙を神が作ったとして、神は誰が作ったのだ?という「いたちごっこ」になりませんか?

人が作り出した神が宇宙を作ったとは思えないが(宇宙に数えきれないほどの星があるのに、地球の神がなぜ特別なんですかね?と思う)、未知の神が作り出したかもしれません。
結局のところ地球人が作り出した神は心の中の存在なので、プランクが言うように主観の問題であり、科学と競合するのもではなく、信じたい人は信じればよいでしょう、というのが私の意見です。

科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで
三田一郎
講談社
2018/6/20

この記事へのコメント